LOVES





───七月。

頬を撫でる風は暖かさを通り越してじっとりと蒸し暑い。
季節はすでに夏本番を告げている。
それなのに。
「……」

指先に触れた素肌はほんのりと冷たくて。

「…崎山」
心配になってそっと呼びかけてみるけれど。
「……」
それに応える言葉は聴けない。
───どうやら、眠っているみたいだ。
「……」

仕方なく、起こさないよう静かに隣に腰を降ろした。

I'm happily alive with you.



旧校舎の屋上。
昼休み。
いつもと変わらない、二人だけの時間。

「……」
手に持っていた昼食の袋からパンとジュースを取り出し、無言で口に運ぶ。
校庭の方から聴こえてくる賑やかな声がいつもより鼓膜に響いてくる。
……けれど。

「……」

まだ、蓉司は意識を取り戻さない。

「……」
いつの間にか食べ終えていたパンの袋をクシャリと丸め、残りのジュースで喉を潤す。

「……?」
ふと、左の肩口に重みを感じて目線を向けた。
屋上の隅にある、ほんの僅かな日陰でやっと見つけたその寝顔。
「……」
…何か夢でも見ているのだろうか?
とても、良い夢を。

穏やかに……微笑むように。
少しだけ上がった口角がそれを教えてくれた。

「…蓉司」
そっと、名前を呼んでみる。
二人きりの時にしか呼ばない、柔らかなその名前を。
けれど、まだ。
「……」
閉ざされた瞼は開いてくれない。
だから。
「蓉司」
今度はもっと、はっきりと。
「…ん…」
そうしたら、思いっ切り面倒くさそうな響きで、ほんの少しだけ応えてくれた。
相変わらず、密かに望んだ二つの黒曜石は見せてはくれなかったけれど。

それならば、と。

「少し暑いかもしんねぇけど…我慢、しろよ」
肩にかかる重みを手の平で支えながら、今度は背中からもう片方の腕を回して静かに抱き締めてみた。
いつもなら「こんな所で…」と酷く牽制する彼も、今ならそんな事もないかもしれない。
何も知らずに眠っている彼の手前、少しの後ろめたさはあったものの。
セーター越しでも伝わる痩せた肩に、そっと。
「…ようじ」
吐息混じりに鼻先を当てると、僅かな汗の匂いと共に嗅ぎ慣れた香りがした。

甘い甘い───蓉司の匂い。
香水を付けている訳ではないのに、なぜか花のように…とても。
それから……安心する。
それは匂いだけではなく。
触れ合ったそこから伝わってくる体温に…通う血の温かさに。

『───ここに、いるから』

大丈夫だと、そう教えられているみたいで。

『ずっと、一緒にいるから』

そんなふうに。

「…そうだな」
聴こえないはずの言葉に小さく呟く。
ぎゅっと、腕の中の体温を抱き寄せた。
もう一度、囁く。
「ずっと、傍にいろよ」
『…ああ』

ずっと、一緒に。

永遠に、傍に。


……───永遠に─────?




「───っ!?」
───突然、眼の前がグラリと揺れた。
眩暈?
そう思った瞬間、今度は全身が波打ったようにざわめいた。
何か得体の知れないものが腹の底から胸にかけてざわざわと這い登ってくる。
それは酷い悪寒を伴い、真夏の陽射しにかいた汗をみるみる引かせてゆく。
全身が強張り、ありとあらゆる自由が吸い取られていくのがはっきりと分かった。
蓉司を抱き締めていた腕からも力が失われ、ひび割れたコンクリートの上に乾いた音が小さく鳴った。

一体自分はどうしてしまったのだろう?
まさか、真夏の屋外で熱中症にでもなってしまったのだろうか。

「───っは…っ…!」
ついにそれは喉の奥まで届き、余りの苦しさに息が止まる。
狭まった気道が熱で引き攣り声も出せない。

そのうち眼の前にある蓉司の輪郭がぼんやりと歪みだした。
霞んでゆく意識を無理矢理そこに向けると、苦しさからか生理的に滲み出た涙の膜がうっすらと瞳の表面を覆い始めていた。
瞳の奥からふつふつと湧き出る熱い水が、蓉司の姿を更に儚いものにさせてゆく。

「───」


ふと、思う。




きえていく。

みずのなか。

あのときみたいに。




(……?)
不意に心に過ぎった自分の言葉。
ほとんど無くなりかけていた意識がほんの少し浮上する。

───あの時?
あの時って…なんだ?

「……───」
ざわざわとした妙な感覚が意識を更に覚醒させてゆく。
ぼんやりと、頭の片隅に浮かぶ景色。
知っているような、いないような。

懐かしく、切ない。
優しく哀しい茜色。

曖昧なそれは…果たして何なのだろう?
消えていくとは、何なのか。
…誰、なのか。

「……」
沈んだ目線を上げてみる。
眼の前にはまだ蓉司の姿があった。
(……良かった。ここに、いる)
思った途端、言いようの無い安心感が全身を包んだ。
なぜかは分からない。
自分も蓉司もここにいるのに。
少なくとも、たった今まで腕の中で触れ合っていた。
そんなのは分かりきっている事なのに。

(それに───ああ)

……そうする事でもっと確かな安心が欲しかったのだと思う。
だから自分を納得させるように、心の中でしっかりと呟いた。
それが何なのかなど知っているはずなんて───ないのに。









『あの時』はもう終わったじゃないか、と。









……それから、急き立てられるように必死に記憶の糸を手繰り寄せた。


───そうだ。
今は真夏で、先月は蓉司の18回目の誕生日で。
二人で祝った、あの日。
学校帰り、近所の菓子屋で小さなケーキを買った。
ロウソクの代わりに、大きな苺が乗ってるのを二つ。
丸い方が良かったかと聴いたら。
笑いながら、こっちで良いと言ってくれた。
手を繋いで、蓉司のマンションへ行った。
…初めて、部屋に上がった。
しばらく蓉司の勉強をみた後、一緒にケーキを食べた。
甘いものが苦手な蓉司。
無理はするなと内心心配しながら見ていたら。
珍しく全部食べてくれた。
好物なのか、最後まで残しておいたらしい苺を頬張り。
ごちそうさまでした、と軽く手を合わせてからコーヒーカップに口付ける。
美味かったかと聴いたら。
一瞬、恥ずかしそうに瞼を伏せて。
美味しかったと静かに笑った。
……哲雄の気持ちが、美味しかったのだと。
その笑顔が…堪らなくて。
『…蓉司』
うっすら桃色の差す白磁の頬に、そっと手を添えて。
『城沼?なに…、っ───』
……甘いそこにキスをした。
せっかくくれた笑顔を壊してしまわないように。
触れるだけの、優しいキスを。
それから。
『誕生日、おめでとう』
───お前が生まれてくれた事…すげぇ、嬉しい。
自分でもクサイ台詞だと思ったけれど、これが正直な気持ちだったから。
抱き締めながら、心のままを伝えた。
そうしたら一瞬、腕の中の蓉司の顔が酷く寂しそうに見えた。
なぜかは…分からないけれど。
けれど、それもすぐに気のせいだと思った。
いつの間にか、見上げる蓉司の顔が微笑みに変わっていたから。
それから、その唇がそっと動いて…こう言った。

……本当に、嬉しそうに。


『    、     』


…………。


……?




───おかしい。

その時の蓉司の言葉が思い出せない。
確かに聴いたはずなのに。




……忘れるはずは、ないのに。









思い出せ。
あの時蓉司は何と言った?
どんな言葉で……笑ってくれた?

「……っ」
不意に訪れた無音の世界がじわじわと心に不安を拡げていく。
なぜだろう。
思い出せないことが───怖い。
けれど、記憶の中で見つめる蓉司は穏やかな微笑みだけをくれたまま、何も応えようとはしてくれない。
先へと続く確かなものがそこにあるのに。

───思い出さなければ。

願えば願うほど、まるで逃げるようにその輪郭がぼやけてくる。
追いかけようと必死になって手を伸ばすけれど。

(……だめだ)

近づこうとすればするほど、確かなはずの想い出さえも酷く曖昧なものへと塗り替えられていくようで……どうしようもなかった。


蓉司がくれた言葉。

とても大切な『何か』。

なのに。

(どうして……思い出せない)




「……っ!」
諦めにも似た感情に囚われた瞬間、再びあのザワザワとした悪寒が全身を襲ってきた。

全身の皮膚がぞわりと粟立つ。
今度のは───まずい。
一度目とは比べものにならないほどの強い不快感に酷い吐き気が込み上げる。
「っ、ぐ…っ」
得体の知れない強大な力で気管が圧迫されたよう。
かろうじて保っていた呼吸すらまともに出来なくなった。

───頭も胸も指先も、足のつま先に至る身体の全てから力が奪い取られてゆく。
感覚だけがただただ苦しいと叫んでいる。
けれど───どうする事も出来ない。

「───っ───っ…」
声を上げる事も噎せる事も許されず、意識も霞んでゆく。
何とか瞼をこじ開けようとするけれど、それはまるで鉛のように重たくてとても敵いそうにない。
ついさっきまで僅かながら拓けていた視界も、今はもう微かな光さえ感じ取る事が難しくなってきた。
それに……酷く寒い。
どうやら体温まで奪われ始めたらしい。
気が付けば、こめかみから流れていた汗の筋は完全に皮膚の上から消えていた。

本当に───自分はどうしてしまったのか。
(よ…ぅ、じ)
せめてそれだけでも確かめたいと願うのに。

「───」


……もう、眼の前に蓉司がいるかどうかさえ分からない。



















……それから、どれくらい経ったのか。

五分か十分…いや、一秒か二秒…?
一瞬かもしれない。
いや、もっとあった…かもしれない。

……分からない。

けれど多分、そんなに長い時間じゃない。

ふわりと柔らかな揺らめきを頬に感じて。
(───、……)
闇に融けた意識の欠片が再び形を取り戻す。
不思議な事に、先ほどまでの苦しみは消えていた。
相変わらず身体の力は失われたままだったけれど。

(……ここは……)
ここは───どこなのだろうか。
屋上……ではないらしい。
少なくとも肌に固い地面の感触は感じられない。
それなら保健室?
倒れた自分を蓉司が運んでくれたのだろうか。
……いや、それも違う気がする。
地面ばかりでなく、柔らかな布の感触さえもまるで感じることが出来ない。

(………)
開かない瞼はそのままに、状況を把握しようと暗闇の中へと意識を向けてみる。

───何か、聴こえる。
微かだけれど、鼓膜が揺さぶられている気がする。
コポコポと、小さな泡の立つ音に。
(……、みず……?)
聴き覚えのあるそれは───確かに。
(……なんで……)
油断すればすぐにまた無くしてしまいそうになる意識の形を細い糸で必死に繋ぎ止める。
すると聴覚と連動するように、今度は全身の肌の上を細かな泡が滑り流れていくのを感じた。
その流れに委ねるように、皮膚を覆う薄い産毛がふわふわと柔らかに揺れている感じもする。

それは───深く穏やかな水の中を漂っているような……不思議な感覚。

(───また、同じだ)

無意識に心に浮かぶ言葉がある。


『あの時』


知ってる。
…覚えてる。
この感覚は……そう。


───溺れていく。
沈んで…いく。
いつかのように。


……あの時のように。










「───!」

───眼の前が鮮やかな一色に染まった。
同時に、胸を締め付けられるような切なさが溢れ出す。









───戻りたい。

未来を誓った夕空に。

赤い水に消えてしまった、あの日の俺達に。









(ああ……そうだった)

思い出した。


───あの時。









手を繋いで。

必死に逃げた。

屋上へと、二人で。

染まる茜とカルキの匂い。


───五月。


『ずっと、俺といろよ』

『ああ』

誓った未来。

触れた唇。

……響く銃声。

空を斬る身体。


それから。


『───哲雄……!』

初めて呼ばれた。

名前で。

蓉司から。


最初で、最後の───。














(───)

意識が、少しずつ揺らいでゆく。

───ふと。
名前を…呼ばれたような気がして。
(───、………)
瞼を、開けた。
………驚くほど、間単に開いた。

「……崎山」
声が出た。
眼の前に、蓉司がいた。
気を失う前と同じ、そこは昼間の屋上だった。

「城沼…良かった」
心配そうに見つめる瞳。

「………」


───ずっと。
ずっと、見たかった。
黒曜石のように美しく瞬く、その眼差しを。

「……、いつから…起きてた?」
「少し、前から。…それより、大丈夫か?」
起きたら隣でうなされてたから驚いた。

そう言って、静かに浮かべた微笑みも、穏やかに響くテノールも。

ずっと見たかった……聴きたかった。

それから。

「…崎山」
「ん?」
「こっち」
「え、何……ぅわっ」

ふわりと舞う甘い香り。
腕の中に感じる重さ。
少し低めの体温。
重なる鼓動。
絡まる視線。

「…、城沼?」
「……名前」
「え?」
「名前。呼べよ」
「…ぁ、」
「蓉司」
「…、」

触れ合う唇。
溶け合う吐息。
背中を包む、手の平の感触。

温かな、命の在処。

「…て、つお…、…哲雄」

ずっと感じていたかった。
もっと、呼んでいてほしかった。

もっと、ずっと。
一緒にいたかった。


叶うことなら───永遠に。


「───」
「……、哲雄……?」


───そんなもの。

『永遠に』あるわけないと、分かっているけれど。









「───、……」

───また。
眼の前がじんわりと滲み出した。
映す景色が緩やかな波を描く。


………どうやら、そろそろ時間切れらしい。


「……蓉司」
「ん…?」

柔らかな唇を啄ばみながら静かに離す。
蓉司の顔が良く見えるように、少しだけ距離を取る。

透き通るような白磁の肌に、ほんのり薄桃色が浮かぶ頬。
艶やかに流れる黒髪、潤う口元。

射し込む光に……きらめく、瞳。

「どうかしたのか?」
「………」


綺麗だと、思う。







けれどきっと───次に眼が醒めたら忘れてしまうのだろう。

あの日の記憶も───その先も。







「哲雄?」
「……、なんでもない」
「?…変なの」
「悪い」
「いいよ、いつもの事だし」
「…、悪い」
「……うん」


………この瞬間でさえ、全て。


そしてまた、偽りの日常に還っていく。

何も知らずに、生きていく。

……そんな気がする。


だったらせめて、その前に。


「……蓉司」
「ん?」




───もう少しだけ。




「一つ…教えてほしいことがあるんだけど」
「教えてほしいこと…?」
「ああ」

今が、終わってしまわないうちに。

「誕生日、覚えてるか?お前の」
「俺の誕生日…?うん…多分。覚えてる、かな」
「こうしたことも?」
「、…ん───」

抱き寄せ、触れ合うだけの儚い口付けの後で。

「……あの時のお前の言葉」
「俺の…?……、ぁ───」
「それさ」
「───哲雄」


柔らかに潤む、その笑顔がくれた言葉を。


「もう一回、聴かせてほしい」
「………、うん」









二度と視ることの無い、幸せな夢の中で聴いた言葉。


聴きたかったけれど、聴きたくなかった言葉。









「俺も……哲雄と出会えて、本当に良かったと思ってる」


「……蓉司」


「だから……哲雄も」









……夢の終わりを告げる言葉。



















『どうか、しあわせに』














I'm happily alive with you.


君と一緒に幸せの中で生きていくから
























───ふわり、と。




優しいキスに、夢がとけた。




I'm happily alive with you. / 君と一緒に幸せの中で生きていく。